律令制の葦屋から明治の芦屋へ
我が国は、乙巳の変から大化の改新に見られる政変を遂げ、中央集権国家確立に向け律令制に取り組んだ。それまでの私領氏族制度を一部踏襲しながらも遣唐使がもたらした先進的な統治機構を進めた。中央にニ官・八省などの官僚組織を設けて、地方には国・郡・里の制度を敷いた。後に里は郷に改められ全国的な統治体制が出来上がる。古より津國と呼ばれる攝津國は、日本として最初の首都と云われる難波宮や最重要港である窪津(渡辺津)を有する攝津は当時の中心であった。攝津國は東生(東成)・西生(西成)・住吉・百済・島上・島下・豊島・能勢・川辺・武庫・菟原・八部・有馬の13郡から成っており芦屋は菟原郡に位置していた。先述の通り郡内には里(郷)が置かれ、和名類聚抄で菟原郡には賀美・葦原(葦屋)・布敷・佐才・住吉・覚見・津守・天城の8郷が見られる。菟原郡域が概ね夙川から生田川と云われている事から条里制の基本を鑑み現在の芦屋市域は賀美郷から葦原郷の一部に当たると考えられる。当時の葦原(葦屋)は本山・本庄辺りまで広範囲の地域を指していた。この律令制による地方分割体制は改廃を繰り返し明治の御代まで続き、廃藩置県により終焉するが、その地名や名残を今にも伝えている。明治に入り全国的に行政区画の配置が行われ芦屋・打出村は旧天領であったため第一次兵庫県(明治元年)となり、三條・津知も尼崎県を経て明治4年に兵庫県に編入される。明治22年の市政・町村制の施行により先述4ヶ村を基本とし飛地の整理を持って精道村が誕生し現在の市域が形成された。
↑日本與地通志畿内部巻第五十九(五畿内志)摂州図
この時代では百済郡が廢され12郡とある
摂河泉地域の地車史
地車や楽車と表記されダンジリについては摂津・和泉・河内を中心に巡行されている。このダンジリの呼称はコマ(車輪)を備え巡行する曳きダンジリとコマを持たず神輿・屋台のように巡行する舁きダンジリが存在するが、この項では主に曳きダンジリを主としたい。このダンジリと呼ばれる山車(ダシ)を曳行する形態は国内で京都の祇園会による山鉾曳行が始まりとされ室町時代中期には成立していたことが洛中洛外図で確認できる。ダンジリが資料として残っているのが元禄16年の岸和田岡部公による稲荷社勧進の稲荷祭が最初と云われる。また、時を遡り石山本願寺跡の大坂城築城に際して、芦屋や御影から切り出した石材搬送が必要となり、修羅引きでの掛け声としてお囃子が使われ、そのだんじり囃子を豊臣秀吉が気に入ったとの言い伝えがある。話を戻し当初の地車は太鼓台に簡素な装飾から始まり、その伝播により地域差が生まれていく。図絵による資料として有名なもので摂津名所図会があり寛政10年の段階で楽車(ダンジリ)は隆盛しており、与謝蕪村の俳句でも詠まれている。芦屋に近い所の資料では天保6年の住吉空之町楽車一條勘定録ではすでに地車の修繕が行われており、それ以前より存在していた事を示している。この手の資料は地車が町衆の神賑としての出し物であり、口伝が中心で公文書等での記録が残り難いことが残念である。歴史研究についても祭りの盛り上がりと反して進んでいないのが実状である。平成21年以降「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に登録された際も摂河泉一帯の曳き山としての地車が採択されなかった結果にも起因していると思われる。
↑摂津名所図会坐摩神社夏祭車楽囃子
大小2枚屋根の地車が描かれている
地車保有の単位
現在、地車を保有し曳行を実施している単位については、祭礼での地車曳行が流行する江戸時代の集落形成状況が基となっている。中世からの芦屋市域に於ける集落については、五畿内志(享保19年)では打出村内に10、芦屋の村内に5存在しており、三條・津知の両村と合わせて記されている。芦屋村では氏子区分や寺の檀家区分から推察するに、東之町・西之町を本郷として山之町・濱之町・茶屋之町の枝郷が見られる。打出村でも明治4年に金毘羅社・春日社・南宮社・若宮社の氏子を伴う宮の合祀があったことから4町以上が存在していたと考えられる。この区分を基に村落同士が地車を競い祭礼を盛り上げた、文化の醸成と集落への帰属意識、今で言う所の郷土愛へと繋がっている。この単位が現在の地車曳行地区とほぼ同意であり、当時の国絵図を見ても芦屋や神戸市東灘区域に於いて馴染みのある村名が伺える。
↑元禄国絵図攝津國(元禄15年)芦屋村内に東出在家・西出在家・濱芦屋新田・樋口新田が見える。
↑天保国絵図攝津國(天保9年)
芦屋村内に東芦屋・山芦屋・濱芦屋新田・樋口新田が見える
芦屋地車の形態と特徴
地車の形態分類は地域の特性により数々に枝分かれしているが現在では大きく分けて上地車と下地車の2つに分類される。この境界は泉大津市と忠岡町を分ける大津川であった。下地車は岸和田で有名な泉州一帯で見られる後梃子を備えたものに対して、上地車は本体周りに肩背棒や帳采棒と呼ばれる木枠を有し獅噛・飾目と呼ばれる屋根上部の彫刻が特徴であり、摂河泉一帯の約900台の地車のうち、7割程度がこの上地車に当たる。近年は、大津川以北に於いて、上下折衷型や青年団に意向により、一見して盛り上がる「やり回し」に適した下地車に買い替える地区も増えてきている。一概に上地車と呼ばれる中にも、住吉型・堺型・大阪型・石川型・北河内型・舟型・神戸型等を中心に10以上に分かれる。芦屋地域の地車は神戸型と呼ばれる事が多いが、この分類に於ける分布の中心である住吉・御影・本山地域が神戸と呼ばれるようになったのが昭和25年の神戸市編入からである。それまでは菟原や灘目と呼ばれていた事であるから、この呼称については歴史認識から疑問符がつく。前置きが長くなったが、この地域は六甲山系に沿った集落形成が成され、その好悪の影響を受け続けている。地車に於いても同様、曳行の安全確保の観点からも他地域で曳行されている地車では、満足がいかなかった訳である。当地域での特徴として最も判別がつき易い点がコマ(車輪)の付き方である。上地車の殆どが内ゴマと呼ばれる本体の内側にコマが入り込み車軸が外に一部突き出る構造である。しかし当地域は先述の通り山がちで、地車の取り回しよりも安定性が重要な事から本体からコマを外に出した大八車と同じ構造が見られる。灘目一帯では酒造りが盛んであり、その輸送にも大八車が使われていた事から、その関係性が想像できる。装飾面では大阪からの本体文化と違い播州からの文化も伺える。その一例が飾り幕と言え、錦糸銀糸を使い綿を入れ込んだ立体的な装飾が見られる飾り幕は、四国や播州からの伝播である。江戸時代に完成した街道と海運がもたらした流通と交流による文化の広がりとも言える。旦那衆が、より豪華で絢爛な祭りに注力した事が、この地域としての特性のある地車形態を備えた大きな要因であるとともに、祭りに対する経済的な配分が叶った事は、当時の安定した社会情勢も映している。
↑外コマ(山之町)
祝い唄としての伊勢音頭
日本各地で唄われている伊勢音頭は、伊勢から遠く離れた芦屋でも祝いの席や祭りで唄われています。そもそも伊勢音頭は江戸時代に庶民の中で大流行した伊勢詣が関係している。徳川幕府の政策として街道整備が進められ、文政年間の式年遷宮後の半年で460万人が参拝した記録もあるように、広く庶民に旅行が浸透しました。しかし、当時の農民を中心とした庶民には経済的な負担が大きく、村単位で講を作り費用を捻出し、代表者をお伊勢さん参りに向かわせる方法を取りました。芦屋村内濱芦屋の小字名、伊勢講田がその名残であり現在でも伊勢町となっている。この講田は伊勢からの御師と呼ばれる神職が関わっており、伊勢での宿泊では、伊勢講田の米を宿代としていた。また、施行(せぎょう)と呼ばれる無銭でのお伊勢さん参りを行う者もあり、沿道や他の参拝者からの浄財で旅費を工面した、この施行に施しをすると徳を積めると考えられていたため成り立っていた。話を戻すと、伊勢詣の目的としては御神徳を得るためであり、代表者参拝の役割としては神札を持ち帰る事が第一の目的であり、副産物としてその他の土産を持ち帰る訳ですが、土産話と共に荷物にならない土産として伊勢音頭を覚えて帰る訳です。参拝者のセンスや音感により各地への伝わり方が変わっていくのは趣きがあり、地域に準じた歌詞の変更を行なった地域もあり、芦屋市内でも唄いまわしや合いの手に差があります。打出村の神輿舁き唄と合わせて、だんじり祭りでも出発の前や、ここ一番の見せ場で唄う事が多く重要な祭り行事の一部となっています。
↑伊勢参宮 宮川の渡し(歌川広重)